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飛鳥仏とクスノキ<1>

■樟~クスノキ~

   クスノキ科の常緑高木。関東以南の暖地に自生し、高さは20m以上に達する。 材は堅すぎもせず柔らかすぎもせず、木目がきつすぎることもなく、鑿(のみ)が入りやすい割には粘りがある。 材が均質で、大きな一枚板が手に入りやすいといった利点がある。防虫材、防臭剤、薬としても用いられる樟脳を含み、 古くから霊木して、尊ばれた。6世紀半ば、仏教伝来とともにあちこちで仏像が作られ始めるが、 この仏像制作のための材料として脚光をあびたのが、クスノキであった。

■歴史の位置づけ~飛鳥時代~

    我が国では、57年、倭奴国王が後漢光武帝から金印を賜り、3世紀、邪馬台国の卑弥呼が 魏に使いを送り、4世紀から大和朝廷が勢力圏を拡大していく。この時代は、時の権力者は巨大古墳を作り、古墳 時代とよばれている。538年(一説には552年)仏教が伝来する。崇仏、琲仏論争で、崇仏派、蘇我氏が力をつける中、 蘇我馬子の後ろ楯を得て、593年、聖徳太子が推古天皇の摂政となった(太子の妻は蘇我馬子の娘であり、推古天皇 の母は蘇我稲目の娘である)。聖徳太子は、冠位十二階(603年)や、十七条憲法(604年)を制定し、律令政治の基礎を 作り、小野妹子を隋に派遣(607年)、大陸の文化を広く日本へ紹介した。607年には斑鳩(いかるが)に法隆寺を建立。 仏教の布教にも力を注ぎ、三経義疏(さんぎょうぎしょ)を著した。622年太子の死、628年推古天皇の死の後、皇位 継承争いが起こり、645年、中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデター(大化の改新)で蘇我氏が滅亡するまでの、仏教 伝来(538年)からの時代を、政治の中心が飛鳥にあったことから、飛鳥時代と呼ぶ。(蘇我氏の本拠である豊浦 (とゆら)宮、蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台は飛鳥にあり、馬子の発願による飛鳥寺は、蘇我氏の権力と経済力の 象徴であった。)

■わが国最初の仏像…

    日本における最初の木彫仏の記録は、553年クスノキに彫られたものである。初めて仏像が 献納されたのが、538年(一説では552年)であり、その渡来仏を手本に彫られたものと推測されている。以来、飛鳥 時代にわが国で作られた木彫りの仏像には全て、材料にクスノキが使われていることが判明した。(以後奈良時代には いるとその主役は檜(ヒノキ)にとって代わられ、クスノキは次第に姿を消していく。)

■なぜクスノキなのか?

    わが国に伝来した仏像の中に、南方産の香木で彫られた木彫仏が含まれており (仏教では香木は珍重されていた)、それに似た用材として、クスノキが選ばれたものらしい。そもそもクスノキは 香りも高く、わが国の香木の代表であったし、当時の刃物で加工するのに適当であり、耐久力も強い。しかも萌芽力も 旺盛で、大木が豊富にあった。

TEXT/堀川 貴子
E-mail : nagi@nagi-web.com

<参考文献>
■日本の歴史がわかる!三笠書房
■木(白洲正子) 平凡社
■ノーザンライツ (新潮社)
■森の博物館 小学館
■日本人と木の文化(小原ニ郎の世界)
URL1/http://www.wood.co.jp/kohara/index.htm
URL2/http://www.horyuji.or.jp
URL3/http://www1.kcn.ne.jp/~horinji/