除隊後ロイは体調を崩し、結核と診断され、入院生活を送っていた。 ウォルトはいくつかの会社で短い漫画フイルムや、宣伝フイルムを作ったあと、自分の会社ラフォグラム・ フィルム社を設立。「赤ずきん」「アリス・コメディ」を制作し好評だったが、制作費を受け取る前に、 フイルムを発注した会社が倒産。そのためラフォグラム社は、資金が底をつき、倒産した。(後に、だまされた のだった、とロイは、語っている)
1923年、失意の中でウォルトはロイのいるハリウッドで、新たなアニメの仕事にとりかかった。 ウォルトの才能を熟知していたロイは、なんとかウォルトを助けてやりたかった。ロイは、資金を集め、帳簿をつけ、 会社が利益を生み出すような努力を惜しまなかった。それは、ウォルトを支える一方で、事業家として自分もやっていこう という意志の現れだった。二人は「ディズニー・ブラザーズ・スタジオ」を開き、「アリス・コメディ」の制作を開始した。 仕事は順調に進み、それなりの収入を得られるようになり、ロイは、エドナ・フランシスと結婚。その3ヶ月後、 ウォルトは、ロイとエドナの結婚の介添人をしたエドナの友人、リリー・バウンズと結婚した。
1926年にはハイピリオン通りのスタジオに引越し、「ウォルト・ディズニースタジオ」と 名づけた。が、仕事がやっと軌道にのると裏切りにあう。1928年には映画の配給会社に裏切られ失意の底で、ミッキー マウスが誕生。その後、初めてのトーキー映画、「蒸気船ウィリー」が大ヒットしたが、またも、詐欺にあい仲間を 失った。
1932年、カラーで制作された「花と木」で、アニメ初のアカデミー賞を受賞。1934年には、 初のカラー長編「白雪姫と7人の小人たち」が大ヒット。
第2次世界大戦がはじまると、映画界は停滞した。不況とストライキの波にもまれる中、 ウォルトは政治宣伝、あるいは軍事訓練用のフイルムを制作し、愛国心を表明。1952年ウォルトは、おとぎの国を建 設することを思いつく。ウォルトは、ディズニーランドの構想を練り、映画の台本を作成し、アニメ制作の指揮をとり、 テレビにも出演して夢を語った。一方、ロイは、銀行と交渉し、資金を集め、映画の配給会社を作り、法務を仕切った。 1955年ついにディズニーランド開園。さらに、未来都市エプコット、芸術大学カルアーツ、そして、ウォルト・ディズ ニー・ワールドなど、ウォルトの想像力は留まるところを知らず、どこまでも拡がってく。が、これらのプランを練 る志半ばで、ウォルト・ディズニー、肺がんにて死亡(1966年12月15日、享年65歳であった) ウォルトの死後、ロイはウォルトの志を忠実に踏襲し、ついに1971年ウォルト・ディズニー・ワールドの開園にこぎ つけた。老年のロイにとっては、厳しく苦しい仕事だったが、ウォルトの意志を継げたことを心から喜び、自らの仕事 を終えたかのように1971年12月20日死去。78歳だった。
TEXT/堀川 貴子
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ディズニー伝説 (日系BP社)
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