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ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

~ひまわりに託した夢~

    1888年9月、35歳のゴッホは南フランス、アルルの『黄色い家』に移りました。彼はここで、画家たちとの共同生活を 夢見ていました。やってくることになったのは、敬愛するゴーガン。ゴーガンを迎えるために、ゴッホは、12枚のひま わりの絵を飾るつもりだと、弟テオに手紙を書いています。そして、それぞれに、12本のひまわりを・・・。熱心なキ リスト教信徒であり、伝道師になりたかったほどのゴッホですから、キリストの12人の弟子を意識していたのでしょうか。

    2枚目には、ひまわりは14本になっています。1本は、弟子を導くキリスト自身であり、つまり、共同体のリーダーで あるゴーガンを意味し、最後の1本は、画商として、画家たちの生活を援助している最愛の弟、テオに捧げられたもので した。

    ひまわりは、太陽、愛、芸術、あるいは、聖なる人物の象徴と考えられており、また、馬の飼料になったり、安価な 油が採れる”農民の花”としても、重要な意味を持っていました。
    4枚のひまわりの絵がゴーガンを迎えました。しかし、ふたりの共同生活は、両者の強い個性がぶつかり合い、ゴッホ が自身の耳を切り落とし、病院へ運ばれたことで終わりを告げました。わずか2ヶ月の共同生活でした。

    退院後、誰もいない『黄色い家』へもどり、ゴッホは、なおも3枚のゴーガンに捧げるひまわりを描きました。が、た びたび神経の発作を起こし、次第に精神の均衡を失い、1889年5月(36歳)、自ら決意して、サン・レミのカトリック精神 療養院に入院しました。この後は、彼のモチーフに、ひまわりが登場することはありませんでした。

    ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、1853年3月30日、牧師を父に、オランダのベルギー国境に近いフロート・ズンデルトに生まれた。 16歳で、美術商グーピル商会に画商見習として就職。23歳で解雇され、その後、宗教活動に参加。伝道師をめざすが、資格を取れず、断念。 27歳、画家になる決意をし、ブリュッセルアカデミーで、解剖学、遠近法を学ぶ。 32歳アントワープの美術学校に入学。ルーベンスの作品を見て、自らの求める色彩を確認、日本の版画を知り、多くの芸術家仲間の共同体的な 雰囲気に接した。

   33歳で、より、自由な空気を求めてパリへ。日本の浮世絵版画、モネやピサロの作風、ロートレックの作風、新印象派の点描技法など、多くのも のを摂取し、自身の様式を確立していった。が、都会の喧騒に疲れ、34歳の終わりに、アルルへ向け、パリを去る。

    アルルでのゴーガンとの共同生活の破綻後、アルルを去り、サン・レミの病院で充実した制作期を過ごしたが、何度も激しい発作に襲われ、37歳で、 オーヴェールに戻る。芸術に深い理解を示す精神科医 ポール・ガッシュの元で療養しながら制作に励む。結婚し、子どもも生まれた弟テオとの間に、 次第に不協和音が広がり、ついに、7月27日、自らの胸にピストルを発射。29日、午前1時30分、帰らぬ人となった(37歳)。

TEXT/堀川 貴子
E-mail : nagi@nagi-web.com

<参考文献>
■週刊美術館1ゴッホ (小学館)
■世界の美術館19ゴッホ美術館 (講談社)
URL/http://www.tohya.simplenet.com/gogh/