

[援助者への思い−2]
今回のテーマもこれが最終回となりました。私の福祉に対する原点である「にんげん大好き」を複数の視点から書かしてきました。
さて、社会福祉の思想は中世イギリスにあるといわれますが、その確立は、近代アメリカでなされています。日本では明治時代後期になっ
て、その近代福祉思想は輸入されたようです。しかし元来日本は仏教思想が根底にありますので、「慈悲」的発想を拭い去る事ができず、
それは、戦後アメリカの自由主義・民主主義の導入後も変わる事はありませんでした。今日でもそれは私たちの基本思想に強く根付いてい
るようです。勿論私もその一人です。よって福祉の基本理念の一つである「平等」や「共存」の精神は、どこかしら日本人には違和感があ
るようです。福祉の仕事は、その必要性は認められても、専門的仕事としては認めてもらえにくいようです。以前にもちょっと触れたこと
があるのですが、福祉という仕事携わって、それなりに社会にその地位なり立場が認められ、精神的にも経済的にも満足な生活をしている
人は、ごくまれのようです。
ところで、そんな「日本人」の思いを持ちながら、何時ぞやの正月に、生まれて手初めて「初釜」に招待され、足をシビレさせながら、苦く
甘い(?)抹茶をいただいた思い出があります。折り良く外には雨(?)が降っており、釜にたぎる湯の音、炭の香り、シャッシャッとい
う茶筅の動き、このたおやかな時の流れを感じられる「日本人」で本当によかったと思いました。日本文化はこの「静」から始まるのだと、
一人興に入ってしまいました。
私が感じる西洋文化は「動」にあると思います。キリストは行動をする事で奇跡を生み出し人の心を動かし、釈迦は両手を広げた慈悲で人
を包みました。さてそこに共通するのは「愛」なのでしょう。「にんげん」なのでしょう。宗教は、人々が混乱なく、平穏に安全に生きてい
く方法を私達に授けてくれました。
しかし、人間には生活を営むという行為において、上手いとか下手とか「能力」の差があります。それは、顔かたちが違うのと一緒で、どう
にもならない事なのかもしれません。しかし人間としての持って生まれた「技術(生態)」においては、さして差はないと考えます。だから、
それを上手く使う「能力」の獲得が、その人の生活を大きく左右してしまっているのではないかと思っています。であるならば、この能力の
獲得の差を改善すれば、すべての人が一様に生活できるのではないかと思います。これが私の社会福祉の出発点です。
文化の違いや思想の違い、宗教の違い、人種の違い、いろんな違いがあったとしても、みんな「にんげん」としての技術を持って生きている
わけですから、その能力の獲得の差を補うために、寄り添い、ふれあい、助け合あう、それは決して異常な事ではなくて、ごく普通で当たり
前の事なのだと思います。
先日、私の仲間から泣きそうな声で電話がありました。いや、もう電話の向こうでは涙を流していたのかもしれませんが、とても悲痛な声で
した。
かいつまんで言うと「山本さん、私、知らないうちに、人を傷つけていました。その方は視力に障害がある方で、私が配膳の時、どこに何が
あり、献立の内容はこうです、といつもなら説明するのですが、その日は、朝から嫌な事があって、仕事に集中していなくて、自分ではいつ
もと変わらず伝えたつもりだったのですが、投げやりな言葉遣いだったようです。その人は、「自分は迷惑がられている…」と、隣で食事を
する人に言ったそうです。その事が私に伝わって来たのがさっきでした。決してそんなつもりではなかったあのですが、とても辛い思いをさ
せてしまいました。」といった内容でした。
私は「そう」と答えただけでした。電話の相手は「もうこんな事は絶対にないようにしないと思っています。」ととてもしょげている言葉が
返ってきました。「人を知らないうちに傷つけるって、本当に情けないです。しかも私みたいな仕事をしている者が。仕事に行き詰まりを感
じました。」
まだ、随分落ち込んでいるようです。私はまた「そう」と答えました。「私みたいにすぐ感情が表に出てしまう者は、こういう仕事は向かな
いですよね。無理ですよね。」
ようやく相手の思いが見えてきました。私はまたまた「そう」と答えました。「私は感情に流されやすいので、人に迷惑ばかりかけてしまっ
ています。どういうふうにしたらいいかわかりません。」ということは、自分をどうにかしたいという事、この仕事が好きなのだということ、
と私には受け止められましたが、続けて私は「そう」と答えるだけでした。心の中では「ガンバレ」といいながら。電話の相手は続けます。
「でもですね、山本さん。もしかしたらこれは私へのその方からのアドバイスなのでしょうか?」
少し、前向きな解釈ができてきたようです。「イイゾイイゾ!」と思う私は「そう」と答えます。電話の相手は、随分冷静さを取り戻してき
てくれました。こんな会話が10分ほど続きました。私が最後の「そう」を言った後に続けた言葉です。
「人はみんな障害を持っているんじゃないかと思うよ。それが短所とか欠点とか言われるものじゃないの。体の障害や心の障害においても大
差ないと思う。
だからみんなその弱いところを見せたくないために、懸命に見栄を張るし、意地も張る。だけど、親しい人の前だと、自分の感情のままで行
動するでしょ。母親や親友に気を遣った行動をとらないでしょう。もしその人が、あなたを必要としなかったら、何も告げずに、姿を見せな
くなるんじゃないの。いなくなるよきっと。直接にじゃなかったにしろ、あなた無しでは今の自分がなり立たないと思っているからヘルプサ
インを出したんじゃないの。嬉しいね。有難いね。幸せだね。誰かに必要と思われているなんて。みんな弱くかっこ悪いんだよ、人間なんて。
だからそれをかばってくれたり、注意してくれたりする仲間を欲しがるんじゃないの。」
私たち援助者といわれる者には、いろんな隠された「思い」があるようです。横柄な私たち援助者は、その仕事においても生きがいを感じ
る事ができるように、対象者への援助活動を通して、自分の生きがいの実現を図ろうとしてしまいます。例えばそれは
@ 偽善…援助者は対象者の自立などを援助しているように見えるが、本心は別のところに隠されている場合。
A 独善…自分の福祉という名を借りた欲求充足だけを考え、独りよがりの援助活動を行う場合。
B 自己ぎまん欺瞞…対象者の幸せを思って援助しているつもりでも、自分の為の援助であったりする場合。自分自身気づかず、
無意識であったりする。
C 自己満足…援助者の一方的な援助活動による充実感。
このように、私たち援助者のニーズの「真相」を解明しておかないと、その行為は、偽善や独善・自己欺瞞・自己満足に陥る危険性を大いに
はらんでいます。人に対して何らかの行為を行うとき、それがたとえ無意識であったとしても対象者の心を踏みにじったり、利用したりする
ための行為であったりします。
私達援助者は、この「援助欲求(援助動機)」の分析や考察を、常時行っていなければなりません。そうしないと、そこには作為が生じ、
強者(福祉)の理論に持てはやされた「人間操作」を行ってしまうのです。
取り留めのない最終回になってしまいました。まだまだ勉強中の身ですので、ご容赦下さい。私は今、福祉の仕事ができる事がとても楽しく
て仕方がありません。とても幸せなことだと思っています。
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Yamamoto福祉介護研究会
代表 山本亮一
この福祉のコーナーへのご意見、ご感想、山本亮一さんへのお便りも、編集部あていただければ幸いです。
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