≫アンデルセン <2>
〜デンマークが生んだ詩人・童話作家〜
22歳で、ヘルシンケアのラテン語学校を中退し、コペンハーゲンにもどったアンデルセンは、
屋根裏部屋に下宿し、夕食は、友人や後継者の家を日を定めて順に食べ歩くという暮らしをしながら、大学受験のため
の勉強を続け、その傍ら、1829年、「アマー島への徒歩旅行」を自費出版し、好評を博しました。そして同年ついに、
コペンハーゲン大学の学生に正式になったのです。が、彼は、ラテン語学校時代のつらい日々を通して、はっきりと、
詩人になりたいと確信したのでした。
1830年(25歳)の夏、学友の姉に恋をしました。名前は、リーボア・ヴォイクト嬢、24歳。
彼の恋は実りませんでした。1831年失恋の痛手を癒すため、1ヶ月半にわたるドイツ旅行をし、9月、旅行記「影絵」を
出版。
1832年(27歳)、ヨナス・コリンの娘、ルイーサ・コリンに恋をしましたが、ルイーサは、
あまりに幼い頃よりアンデルセンのことを知っており、アンデルセンの愛を受け容れるより、兄妹の仲を選びました。
1837年(32歳)恩人エアステッドの娘、ソフィーに恋をしますが、財産がないため、家庭をもつ
という望みを、自ら諦めたのでした。アンデルセンにはあまりに風変わりな所が多かったために、女性達からは結婚相手
の対象にはならなかったようです。
1843年9月(38歳)、スウェーデンの歌姫、イェニイ・リンドと再会し、彼女の清らかな人格
と魂、純粋なピューリタン信仰に感動し、深く恋してしまったのです。が、彼女の返事は、「愛するお兄様」といった
もので、やんわりと彼の求婚を辞退したのでした。
アンデルセンの友人を語る時、筆頭に上げられるのは、恩師ヨナス・コリンの息子、エドヴァー・コリンでしょう。
彼は、冷静で無口、感情を表すことを嫌い、伝統的な上流階級の教育を受けた、アンデルセンとは正反対の人間でした。
彼はアンデルセンのために、経済的な利益の面倒を見、出版社との契約交渉に力を貸し、作品について議論を戦わせ、
綴りの間違いを直してやったりまでしています。加えてどんな不愉快なことでも、正直に伝えることが彼の使命と考えて
いたふしがあり、時としてアンデルセンを悲しますようなことも、率直に意見しました。
アンデルセンは、遠く旅の空から、エドヴァーに、「あなた」と呼び合うことをやめて、「君」と呼び合いたいと提案
しましたが、友好的、かつ冷静に拒絶され、兄弟のようでいながら、一方で、どこか冷たい一線をひくエドヴァーとの
友情に、アンデルセンは終生苦しい思いをしました。
コリン家の人たちは、アンデルセンを、本当の息子のように、兄弟のように愛しましたが、底にある身分の違いのような
ニュアンスを、アンデルセン自身消すことはできませんでした。彼は、心からコリン家の「誇りの息子」になりたかったのですが。
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<参考文献>
■アンデルセン一生涯と作品 (小学館)
■アンデルセン童話全集 (小学館)
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