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アート・ギャラリー

≫宮沢賢治というひと…

    『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などで有名な宮沢賢治は、また、教育者であり、 農学者であり、芸術、音楽、園芸などの分野でも、その才能を発揮した人でした。面白くて、いたずら好き、 面倒見の良かった彼は、多くの人に慕われました。童話、詩などたくさんの作品を残しましたが、生前に出版されたのは、 『春と修羅』『注文の多い料理店』の2冊のみで、一部の人に評価はされましたが、その難解さゆえか、受け容れられませんでした。
◆宮沢賢治の生涯
1896年/8月27日今の岩手県花巻市に生まれる。
・・・石や鉱物に異常なほど興味をしめし、石っころ賢さんとも呼ばれた。
1914年/(18歳)盛岡中学を卒業し、盛岡高等農林学校農学科第2部に入学。
・・・中学2年で、初めて岩手山に登山。以後その魅力にとりつかれ、数え切れないほど岩手山を訪れた。
1917年/(21歳)小菅健吉、保坂嘉内らと同人誌『アザリア』を創刊。
・・・思索や詩に熱中し、短歌の創作開始。
1920年/(24歳)盛岡高等農林学校研究生終了。
1921年/(25歳)上京(家出)。法華経の信者団体である国柱会本部に行く。8月妹トシの病気の報に帰郷。
12月稗貫郡稗貫農学校(のち県立花巻農学校)教諭に就任。

・・・法華経にのめりこみ、浄土真宗の父としばしば対立。
・・・ガリ版切りのアルバイトをしながら、月3000枚というハイペースで原稿を書く。
・・・ポケットに手帳をいれて、昼夜を問わず、自然の中を歩き回るのが好きだった。 そこで感じた不思議な幻想をメモし、詩や物語にしたためた。
1922年/(26歳)11月妹トシ死亡。
1924年/(28歳)4月、心象スケッチ『春の修羅』を自費出版。12月、『注文の多い料理店』を刊行。
1826年/(30歳)3月、花巻農学校を退職し農業に従事。8月、羅須地人協会を設立。
・・・農民達に農業科学や芸術を教え、肥料設計の講演をしたり、子ども達に自作の童話を読み聞かせたりした。
1928年/(32歳)12月、過労と栄養失調のため急性肺炎になる。
・・・厳格な菜食主義者で、周りが栄養状態を心配するほどの粗食だった。
1930年/(34歳)病状やや回復し、園芸に熱中。
・・・植物や花にも興味を示し、めずらしい花壇の設計なども行っている。
1931年/(35歳)2月、東北砕石工場技師となる。9月石灰宣伝で上京中発熱。帰郷後病臥。
・・・死後手帳から、発病して倒れた時のメモ『雨ニモマケズ』が発見される。病気の自分を励ます為に書いたものだった
1933年/(37歳)9月21日、法華経を印刷して知人に配布するよう父に遺言して、午後1時30分死去。


TEXT/堀川 貴子
E-mail : nagi@nagi-web.com

<THANKS>
■『賢治の事務所』
URL/http://www.bekkouame.ne.jp/~kakurai/index.html
■幻想第四次(宮沢賢治サイト)
URL/http://plaza19.mbn.or.jp/~jmaieh/kenji/kenji.htm

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