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「にんげん」に優しくなれる瞬間(第3回)

[患者への思い]

   私は数年前、重い病気になり生死をさ迷いました。人間誰しもそうなのでしょうが、重い病気になると、そこにつきまとうのは「死」というイメージです。それは暗く重いものとして私たちには認識があります。
しかし、よくよく考えると「死」とはあくまでもイメージでしかなく、唯一今生存している人間誰しもが体験したことのないものです。「死」とは、言うならば「主観的想像概念」であるということなのです。
「死」という概念は、それぞれが自分で考え出したものです。さまざまな人から「死」話を聞き、または、臨死の場面に出くわすことで、「死後」というものを想像し、そこから始まる未知の世界に、焦りや不安の交錯する思いをめぐらせるものなのです。
   ここで私が考えたことは、「死」というそれぞれ自分で考え出した概念に対して、そしてそれに直面した時に、責任ある態度で望めるかどうかということでした。これは、視点を変えれば、自分の「生き方と対峙する」という姿勢を持つということだと思いました。
   もし、「死の期限」を医師という他人から言い渡された時、そこにただ「死」を待つだけの日常生活を過ごすことになっては、何等存在価値のない生命存在体となってしまうのではと考えました。
   ここでもし理想とされることがあるとするならば、「死の期限」が間近に迫った時だからこそ、その思いを180度転換し、「生きる」とは何か、「人の存在」とは何か、それは人の「生の本質」の追求がなされることだと思いました。そうすることで、人の存在価値は大きく変換されるのではないかという思いでもありました。考えなければならないことは、「生きる」という「命について」ではないかということでした。
   そういう思いから、そこから発展して「命について」考えを及ばせてみたいと思います。
   入院中に考えたことは、看護師さんに脈をとってもらっているときに感じたことなのですが、生きている証として、その目に見え感じることができるものとして、心臓の脈打つ音があるということです。脈拍は誰でも簡単に感じ取れる「命の証」です。これは言い換えれば、「命は時間」であるということに他ならないということなのだと考えました。
   しかし考え方を変えると、この脈というものは命の証であると同時に、命を削っているという証でもあるわけです。即ち、人間誰しも、生きているということは、死に向かって、刻々としかも確実に打ち進んでいるということなのです。その命の現れである「時間」を私たちはどのように使っているのでしょうか。とてももったいない気がします。
   例えば、お金ならたいていの人が大切に使おうとします。なるべく無駄のないようにと考えて遣います。貨幣文化が発展し、こと私たち現代人は、お金を最優先に考えて行動を取る傾向にあります。これは、お金の値打ちや価値というものを十分に知り認識しているということです。もっと言うならば、お金は手に入りにくく、しかし手放すのは簡単なものであるということを、誰しも理解しているということなのです。
   それに比べ、普段の生活において、命という時間の刻みや損失を、私たちはほとんど意識しないままに過しています。それは、命の価値を知らないのか、もしくは考えていないということなのです。それは、命というものが、最も手に入りにくく、最も簡単に手放せるものだという認識に欠けているということなのです。生きているということを実感することがなかなかできない以上、命というものを考えることは殆ど無いといっていいのではないでしょうか。
   命というものは、様々な条件によって成り立っています。好条件であれば命を永らえることができるでしょう。しかし、その条件がちぐはぐになったり、均衡が狂ってしまうと、病気になったり死んでしまったりします。
   人間は、命を削りながら生を過しています。その終着駅が死ということなのです。その途中に停車駅はありません。でも通過駅は無数にあります。その通過する駅は見すごすこともあるでしょう。もちろん気づくこともあります。人生の節目・転機という通過駅はよく見えるものです。でも途中下車はとても困難なことです。
   いつの間にか通過しているさまざまな駅。知らず知らずのうちに削っている命。そして誰にもいつ来るのかわからない終着駅。突然にやってくる死。
たまには、命について考えたいものです。

Yamamoto福祉介護研究会
代表 山本亮一
 この福祉のコーナーへのご意見、ご感想、山本亮一さんへのお便りも、編集部あていただければ幸いです。

(編集長 堀川貴子 記)
E-mail : nagi@nagi-web.com

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