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こころの喫茶室

≫出逢い

    『会う』ことは容易なれど、『出逢う』ことはなかなかに難しいと感じる。私にとって『出逢い』は殆どいつも唐突であり、極めて受身的なものだ。 何か掘り出し物はないか、などと雑貨屋に立ち寄り、さんざん物色した挙句に見つからず、あきらめたところで、たいていは斜め前位からなにか視線のようなものを感じ、見ると、"おうおう、そこに居たか"と、もうずっと以前から私に買ってもらうのを待っていた風情の物がみつかる、といった具合で、初めて『出逢い』が生じるのである。
    従って、私の場合、気負い込んで作為的に自ら求めた所に、会うことはあっても、『出逢う』ことはまずない。肉体的脱力、心理的無防備、そこにすーっと入ってくる感じである。
    そういえば、先日、20数年ぶりに列車のひとり旅をすることになり、図らずも自分自身と出逢った。
    窓の外に拡がる景色はゆっくりと風の速さで流れていた。遠く連なる山の端は、昨日までの雨のおかげでくっきりと陽光に映え、稜線は、列車の懐かしいリズムに合わせ、波打ちながら、少しずつ迫ってくる。
    穏やかに蛇行して、田んぼの中ほどを流れていた川は、いつの間にか線路と並行し、すでに湖水の趣となり、数せきのカヌーが水面に造りだすクレシェンドの航跡は、今が穏やかな週末であることをより鮮明にしていた。
    『夜明け』というチャーミングな名前の、しかしおそろしくひなびた駅を通り過ぎたあたりから、列車は、徐々に勾配を増し、やがてトンネルに入った。そこで窓が見事に不意をつき、景色のかわりに一瞬にして映し出したもの、それは、無防備が故にぼーっとして本当に情けない、しかし、受け容れざるを得ない自身の顔であった。その表情たるや、口を半開きにして、まるで、『人類の夜明け』そのものではないか。私の中の定義では、これも自分との『出逢い』に他ならない。
    さて、七夕の夜、織姫は、一年に一度の約束された再会で、真に牽牛に出逢えたや否や・・・。

久留米セントラルクリニック
堀川 喜朗

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