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こころの喫茶室

≫秋章〜収穫の時〜

    『誰も私のことをわかってくれない。』
    彼はひとしきり、日々の人との関わりがいかに辛いものであるか話し終え、最後にそう言うと、唇をきゅっと固く結んだ・・。
    何と重い言葉だろう。そう思うしかなかった彼の苦悩に、しばし想いを馳せ、そして問うてみる。
    <じゃあどんな時にわかってもらえたと感じるのだろう?>
    「それは自分の気持ちが相手に通じたと思えた時ですよ。」
    <通じたと思えるのはどんな時かな?>
    「自分が感じたように相手も感じたと思った時です。」
少し怪訝そうに彼は答える。
    <どうなったら、そう思えるのだろう?>
    「それは相手の反応でわかるじゃないですか。」 
彼は、明らかに語気を強めた。
    なるほど・・と私は思う。多分彼は、相手が自分の予想した通りの反応をしない限り、わかってくれたとは思えないのだろう。そしてまさしくこの瞬間、私も彼にとっては、わかってくれない人たちの仲間入りをしたに違いない。
    人には、それぞれの生きてきた歴史の中で築き上げられてきた、『問題の「たて方」と「解き方」』がある。たとえ同じ場面に遭遇しても、その中の何がその人にとって問題なのかは、皆、少しずつ違う。そして何を問題にするかによって、その『解き方』即ち反応の仕方もまた、それぞれに違ってくる。従って、相手の反応が、全く自分の期待した通りであるなどというのは、誰にとっても稀有なことである。
    私は確かに、私のわかり方でしかあなたのことをわかることはできない。そしてその結果が、あなたの予想や期待と違う反応であったとしても、しかしそれがあなたのことをわかっていないことになるとは、私は思わない。
    これらのことを、もし彼がわかろうとしたならば、自分のことをその人なりにわかってくれる人がいることを、きっと彼も知ることができるだろう。
「解ろうとする自分」がいて、「解られる自分」がある。

    四季の中で、『深まる』という言葉が唯一似合う『秋』は、また、心を深めるにふさわしい季節でもある。
    夜はひんやりと長く、虫の音は耳に心地よい。そんな程よい静寂の中で、「わからぬこと」を改めて自分に問うてみる。それが何であれ、深まるにつれて、見えにくかったものは徐々に姿を現わす。そしてもし、その姿が、思いもよらずシンプルなものであったなら、その時きっと、あなたは何かが『解った』自分に気付くだろう。
秋、それは心の収穫の時でもある。

久留米セントラルクリニック
院長/堀川 喜朗

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