≫アンデルセン <1>
〜デンマークが生んだ詩人・童話作家〜
ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、1805年4月2日、デンマークのフェーン島第一の町、人口およそ5千人のオーデンセで、
生まれました。父は靴職人で、たいへん貧しい暮らしでしたが、自由思想家を自称し、読書を好み、息子を愛し、息子に、
ホルベアの戯曲や、千夜一夜物語を読み聞かせてくれました。母は、素朴で文盲、迷信的な考えや習慣をたくさん持った人で、
息子をとても甘やかして育てました。ハンス・アンデルセンは、14歳までこの地で暮らしました。遊び友だちはなく、
ひとりで、室内で読書をしたり、絵、おもちゃ、あやつり人形などで、遊びました。5歳ころから学校へ通いましたが、
友だちはなく、夢想家、変わった人と見られていました。祖母の勤める老人用精神病院によく行き、老人達に、即席の講演や、
自作の物語を発表し、あなたは天才だ、といわれるのが嬉しかったのです。
7歳の時両親に連れられて、劇場へ喜歌劇や軽歌劇を観に行きました。
それから彼はこの芸術に惹かれ、ひとりっきりで演じたり、また、自分でも芝居を書いたりしました。
彼は歌う事が好きで、美しい声の持ち主でした。11歳の時父が死に、母は、息子を働きに出しましたが、そこでも、
即興で作った歌を歌い好評で、周りから、"舞台に上がるべきだ"などといわれ、役者か歌手になりたいと密かに思うようになりました。
13歳の時、母は靴職人と再婚しましたが、継父は、アンデルセンの教育には、一切口出ししませんでした。
14歳で堅信礼を受け、母は彼を職人にさせたいと思いましたが、彼は、役者になるためコペンハーゲンに行かせて欲しい、
と泣いて頼みました。コペンハーゲンの王立劇場で、俳優としての才能は開花し、真価を認められると彼は信じていたのでした。
どうせすぐに帰ってくるだろうと母は折れ、彼は1919年9月(14歳)、わずかなお金を持って、単身コペンハーゲンへと向かいました。
コペンハーゲンで、彼は王立劇場で雇ってもらえるためのあらゆる努力をしました。絶望的な状況のなか、
王立劇場声楽学校校長シボレーに拾われ、2年間バレエや声楽のレッスンに励みました。が結局、容姿、才能の点で無理だと勧告を受けたのでした。
一方で、彼が密かに書いていた戯曲は駄作であるとの酷評はあったものの関心を示され、もっときちんと文法やラテン語を学ぶべきだとの声があり、
公費で、グラマースクールで学ぶ許可が下りたのでした。王立劇場の理事であったヨナス・コリンが後ろだてとなり、アンデルセンは、
1822年10月、スラーエルセ(後にマイスリングの移転に伴いヘルシンゲアへ移りました)のグラマースクールの生徒となったのです。彼は17歳でした。
グラマースクールの校長、シモン・マイスリングは、アンデルセンの成績が思わしくなく、
それは彼が学業を怠け、詩を書くからだと決め付け、彼にたいそうつらくあたりました。マイスリングは、
アンデルセンの中の詩人を殺そうとし、それが却って、彼の詩人としての才能を解き放ってしまったのでした。
(このころ、絶望のあまり、自分をいまわの子に見立てた『いまわの子』を発表します。)ついにコリンの助言で、
1827年4月、マイスリングの家をあとにし、彼の人生の中で最も辛く暗い時代を終えたのです。
(以下次号に続く)
<2>へつづく →
<参考文献>
■アンデルセン一生涯と作品 (小学館)
■アンデルセン童話全集 (小学館)
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