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「にんげん」に優しくなれる瞬間(第4回)

[子どもへの思い]

   連載も4回目になりました。「障害者への思い」・「老人への思い」・「患者への思い」と書いてきました。今回は、子どもについて少し考えてみたいと思います。
   昨今、子どもの問題が毎日のように報道されています。教育・学校問題、いじめの問題、非行問題そして子どもへの虐待、様々な問題が私たちの心を悩ませています。
子どもはとても純粋です。それゆえ、家族や社会のひずみを受けやすい存在だといわれています。そんな子どもたちが引き起こし、また巻き込まれる「問題行動」といわれるものは、一体どんな捉え方をしたらよいのでしょうか。
   私たちは、その行動に注目します。そしてその行動の意味する「声なき声」に耳を傾けるのです。その行為は、その「信号」を発している子ども自身の救済であるとともに、その子どもを取り巻く家族や社会への警鐘であり警告でもあるわけです。よって、その行動は何らかの「信号」であり、その「信号」が指し示している意味を私たちは解読しなければなりません。

   では、この「問題行動」という「信号」がいったい何を意味しているのかを考えてみれば

@「自分を助けてほしい」という意味
Aその行動によって「自分を守っている」という意味
B「かかわり方が失敗している」という意味

等に視点を集約することで、その行動の理解がしやすくなるようです。
例えば、「不登校」について考えてみると
@ 不登校になることで「助け」を求め
A 不登校になることで自分の心や体を「守り」
B 家族や社会の自分への「かかわりの失敗」を告げています。
「不登校」という「信号」に対して、短絡的に「学校に行かせる」ということを目標にした働きかけでは、ほとんど無意味であるということが理解できます。
   家族や社会はそれぞれが相互に関係を持って、動かし動かされてかかわっています。だから、その結果として「問題行動」の原因を考えていくとき、問題行動を起こすことが問題なのか、それを起こさせることが問題なのかという「二つの視点」を忘れてはならないのです。加えて、その行為によって解消されものはいったい何かということの究明も必要なのです。
   このことは、その「問題行動」という行為をとらなければならなかった、もう少し言うならば、それしか問題解決もしくは解消方法がなかったという、本人自身の問題として捉えると同時に、家族・社会的視点に立った生活環境の問題も合わせて考えなければ片手落ちになるということです。簡単にいうならば、表面に現れてきた「問題行動」は、ひとつの有効な手がかりにしか過ぎないということなのです。しかしその問題行動こそ重要な手がかりの始まりなのです。
   子どもたちは「問題行動」という形でしか意思表示ができないある意味「表現力の乏しさ」を私たちは受容し、その奥でもがき苦しんでいる子どもたちの「心の葛藤」に耳を傾けることが必要です。自分ひとりでは解決できず、かといって誰にも相談できず、そのやり場のない思いがひとつの問題行動として表出したということなのです。
   繰り返しますが、その表出された問題の解決方法ばかり考えていたのでは、その部分だけの解決にしかならないのです。その本質的解決、すなわち根本原因の究明と、それへの処方・対応がなされなければ、多分またその問題は、別の形となった「問題行動」として現れてくるに違いありません。
   子どもたちには子どもたちなりの理屈があり、そして子どもたちには理解できない大人の理屈があるということも忘れてはならないことです。私たちは、

@ 何をしたらいいのかを「考え」
A 何ができるのかを「知り」
B 何をすべきかで「動く」

ということで、子どもたちの信頼を得たいものです。子どもたちが「人を信頼する気持ち」をなくさないようにするため、そして安定した人間関係を形成させ、それを基本に子どもたちを育みたいものです。

Yamamoto福祉介護研究会
代表 山本亮一
 この福祉のコーナーへのご意見、ご感想、山本亮一さんへのお便りも、編集部あていただければ幸いです。

(編集長 堀川貴子 記)
E-mail : nagi@nagi-web.com

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