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こころの喫茶室

≫鎮魂の冬

    まだそれまでは、彼の中の正義には、確かに貫かれるべき理念があった。しかし、彼が富豪の父から疎んじられていると感じ始めた頃から、そしてついに父と家族の保身の為、彼だけが祖国を失わざるを得なくなった時、理念は完全に歪曲された。熱き憎悪の炎でねじ曲げられた正義は、今や、人として大切なものを守る為ではなく、自分の帰る場所を奪い去った権力への破壊衝動を正当化する為の個人的道具となった。
    一家は英国王室の血を引くことを誇りにし、祖父は高名な政治家だった。その期待通りに最高の地位にまでのぼりつめた父親に、彼はずっと超えられぬものを感じていた。一家の威光で同じ地位についてからも、それに値する力量を持ち合わせているか、誰もが懸念し、彼はひとり重圧と焦燥の日々を送っていた。そしていつか、それを一掃できる、即ち、祖父も父もなし得なかったことができる機会の到来を渇望していた。
    そしてそれは起こった。国を追われた男が彼にとって権力をふりかざしているとしか思えない国を破壊した。父親への復讐という個人の理由は、宗教上の大義に見事にとってかわり、その理由を莫大な量の瓦礫の下に、多くの命と共に埋もれさせた。
    破壊された国には、ついにその機会がやってきたと感じた男がいた。父親を乗り越えるという個人の理由は、今や、世界を守るという正義の爆弾の雨にとって代わり、同じように多くの命と共に、その理由も荒涼の大地の下に見えなくなった。
    個人の理由とは、『心の渇き』である。権力を持つひとりの人間の心の渇きは、いかなる理由であれそれが大義と結びついた時、多くの人が動かされ、幾多の利害がからみ合う中で、多くの犠牲が払われる。そしてその犠牲になるのはただひとつの例外もなく、弱者であり、そこにはまた別の個人の理由が生まれる。  
こうして悲劇は繰り返されてきた。
    その昔、賢者で名をはせた男がいた。ついに最高権力を持つに至った彼は、しかしまもなく苦悩してこう叫んだ。『さあ早く私をこの場所から降ろしてくれ!さもないと私は小賢しく自分の欲に理屈をつけて皆を不幸に導くであろう。その衝動を止める術を知らないのだ。それを危惧する賢明さを私がまだ持ち合わせている間に、さあ一刻も早く!』


    冬は必ずやってくる。
    いかなる人がどんな理由で早い春を望んでも、冬はその前に毅然として立ちはだかり、はやる気持ちを阻み、待つことを余儀なくし冷ましてゆく。その圧倒的な自然の規範の前には、どんな力も無意味である。
    そうして冬がすべての魂を鎮め終えた時、
ようやく春はそこに見えてくる。     

久留米セントラルクリニック
堀川 喜朗

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